newNAPPAFUKU-24 (20210623)

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<一寸長い文になります>

 

 以前、50歳頃に網膜剥離で入院したことを述べたが、この田舎疎開生活からの足跡を振り返る機会があった。おぼろ気な記憶を頼りにいくつかのことはわかってきたが、どうしてもわからないこともあった。母がぼつぼつと話してくれて分かってきたこともあったが、母にもわからいこともあったらしい、話したくないこともあったようだ。
 今は父母とも故人となっているので本当はどういうことだったのか、今もわからないことがいくつかある。これは、私が「どうして起業したい」と思ったのか?に関係している。

 

 以前にのべたが、ひょっとしたら「生まれる前に自分の人生のプログラムを組んで生まれてきたのではないか?」を知りたいからである。
 これまでの人生には、自分にとっては良いことも悪いことも、理不尽なことも、嫌なことも、つらいことも、繰しいことも、楽しいことも、すべてが生まれてから始まり人との出会い、出来事との遭遇、田舎、学校、就職、職場、そして大学受験失敗したのも、起業したのも、そして今があるのは何もかも全てが「人生のプログラム」に従って動いているのではないか?ということである。
 
 その最初の部分、幼児期を考えると、先祖ー祖父・祖母ー父母ー兄弟姉妹と続く家族の系譜(遺伝も含め)がある。父母の下に生まれ兄弟姉妹で共に育つ環境から始まり、生まれた時代を背景にー家族ー地域ー京都ー日本ー世界の潮流へと連綿とつながる部分があるはず、そして世界の事も戦争のことも日本が負けることもプログラムの内にあり、すべてを見通して描かれていると思われる。
 この「人生のプログラム」膨大な綾なす織物のようなイメージが浮かび上がってくるが、本当に存在するのだろうか?考えてみれば不思議なことだらけである。


 オギャーと生まれてから、これまでの人生を歩んできた道は一本道である。曲がりくねっていても、遠回りしても、巨大な山川が横たわっていても、失意挫折しても、失恋しても、失敗しても成功しても、出会った人達や遭遇した出来事・・・それらをつなぐと一本の道につながる。つまり別の道・別の人生は無い、2本や3本の道はない。もしあの時あれが無かったらどうなっていただろうか。と思うこともあれば、あの人に出会ったから今の自分があると思えることもある。
 その何もかもが、自分が生まれる前に「人生のプログラム」と作りそれを実行するたの人生行路なのではないか?そしてその最終目的は何だったのか?何をするためであったのか?
 
 今、私が師事しているハーモニカの先生は、私より年上の85歳・大師範(名称)であるが大変お元気である、弟子数は延べ1000人を超え、今は各地で常時約70名の門下生を指導されている。宿題が沢山出るので大変だが、毎回の熱心な指導は厳しくもあり楽しくもある。ある時、先生のご自宅を訪問する機会があった、その折に話されたことは、某企業の社長を務められたのち、ご自分の師匠にならい、ハーモニカの伝道師として生きようと決意されたことを話してくださった。そのような話をお聞きしてから、遊び半分では先生には大変申し訳ないと思い、気持ち入れ替えて練習に励んでいる。


 82歳になった今、この先、人生の終着駅まで何をするようにプログラムしてきたのか?、これを間違うとあと残りの人生時間では取り返しがつかないことになる。今からでも遅くないので自分が作った「人生のプログラム」を知り、人生の終着駅までそれに基づいてしっかり生きたいと願っている。

 

newNAPPAFUKU-23 (20210622)

newNAPPAFUKU-23 (20210622)

写真:小4頃、この頃から眼鏡をかけていた。肩のところに「京都真空工業研究所」の看板が見える、左は看板を拡大したもの

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「人生の足跡」

 私の一家は、祖母ー父母ー子供4人の家族構成、それに奉公にきていたお手伝いさんがいた。私は2番目の長男として1938(S13)年9月20日に生まれた。この生まれた年月も順番も性格形成に大きく影響する。

 生誕地は京都の観光地である嵐山の近く、現在のJR嵯峨嵐山駅西側の丸太町通り付近である。ここで終戦まで住まいしていたが、終戦後に転居したので住まいは他者の手に渡っていた。立派な邸宅だったが、2年前、記憶を頼りに訪れたとき、駅前再開発ですっかり変わっていて生家が無くなっていたのには驚いた。他人の手に渡ったとはいえ自分の生家が無くなっていたのは少し寂しく残念なことであった。

 

 S18年ころから日本の敗戦色が濃くなってきた。そんな頃、母の実家へ妹と二人が預けられた(疎開)。母方祖母の世話になり、同じ年頃の子供3人と一緒に育てられた。私5歳、妹3歳ころの事である。ここでの田舎生活は1年半ほどだったが、その後の私の性格にかなり影響したと思っている。


 翌年(S20)春、田舎の小学校(当時は国民学校)入学、その夏に終戦を迎えた。近所の人たちが村の大きな家に集まり、土間に正座してラジオから流れる天皇終戦放送(玉音放送)を聴いた、大人が涙を流していたのを覚えている。そして嵯峨へ戻り2学期から地元嵯峨小学校へ、その年の秋に京都御所の近く寺町丸太町に引っ越し、春日小学校へ転校した。

 

 この頃からの話。父は定職に就かず、最初は古物商をしていたようで、祖父から引き継いだ家財を切り売りしていたらしい、その後友人と「京都真空工業研究所」を立ちあげた。これはカメラのレンズをコーティング(真空蒸着)する仕事だったが、うまく仕事につながらなかったようだ、そのあと写真屋をしたがこれもうまくゆかずに商売はやめて後は仕事してなかったのではないかと思う。

 「京都真空工業研究所」の話に戻るが、この時は私小4~5年生ころで、看板が写っている写真が残っている。この仕事は、チャンバーの中にレンズを置いて真空に引き高電圧をかけて放電させ真空蒸着する仕事だったようだ。
 子供ながら面白そうだったので仕事を手伝ったことがあった、父もうれしそうに教えてくれた。この仕事がうまく行かなかったのは、ずっと後、母に聞くと、この仕事を一緒にすることになっていた父の友達に騙されたと言っていた、が真相はわからない。戦後のどさくさ紛れの時だからいろいろあったのではないかと思うが、仕事はS社(私が後に世話になったS社)からくるはずだったが、機械(設備)だけ買わされて仕事は何もこなかったといっていた。

<続く>

newNAPPAFUKU-22 (20210621)

newNAPPAFUKU-22 (20210621)

写真:母と私2歳頃

 

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 「人生のプログラム」スタート

 「人生のプログラム」を考える時、先祖代々から連綿と続く家族の系譜、肉体的特長や遺伝子は親から子、子から孫へと代々引き継,がれてゆく。時代や環境の影響を受け、その中に一人一人に「人生のプログラム」があり、それが交わり会いながら一生涯を生きてきたと考え、話は一気に幼い頃に戻る、

 

 これは80年も前の事なので記憶違いや時期の思い違いもある。また。私事であり、当時の私が見たり聞いたり感じたりした家族の風景なので間違いや誤認があるかもしれない。

 

人生の始まり(人生プログラムスタートの頃)

 

 祖父の出身は、京都府の北、福井県若狭湾に面した小浜市(現)。京都に出て染色関係(絞り染)で成功した人らしい、立派な風格の写真が私のオーディオルームに飾ってある。私が生まれる1年ほど前(S12)、50歳くらいで亡くなった。その翌年に私が誕生(S13)したので、祖父は私の顔を見ていない。祖父の里、小浜で祖父の法要があった時に連れてもらった記憶がある。


 祖母は滋賀県大津市(現)の出身、京都・山科の料亭(最近まで存在した)に奉公に出て、祖父と結婚した。終戦直前のS20年春に亡くなったが、私は田舎に預けられていたので知らされてなかった。4人の子供の面倒をよく見てくれ、戦争で食料が乏しくなって、庭の畑で作ったサツマイモやカボチャの種をおやつにして食べさせてくれた。

 

 父は三番目の長男として生まれ、二人の姉と妹があり、妹は幼いころに亡くなった。ずっと後に分かったことだが、父は祖父がお妾さんに産ませた子で生後すぐに入籍したらしい(母の話)。この時代にはよくあったことのようだが、このお妾さんの話はずっと後年に母から聞いたことなので、詳しいことはわからないままである。もしこれが事実なら私の系譜の片側にはこのお妾さんの血が流れていることになる。
 電気系の学校へ行った様で、ラジオを作っていたかすかな記憶がある。当時、高価な電蓄やカメラを持っていたのでかなり優雅な生活だったようだ。カメラのおかげで私の幼児期の写真を沢山残してくれている、これは私の宝物となっている。
 祖父の染色業は、父が引き継がず、従弟が引き継いだ。私は幼い頃、一度その染色工場へ連れて行ってもらった記憶があるが、何時のことでどこにあったのだろうか、京都・西院あたりにあったと聞くが?
 私小六の時、母と離婚、後再婚し相手との間に子供二人がいる。(異母妹弟)、京都中央市場に勤めていた。他界したのはS46年享年50歳ごろ、49日法要のとき初めて母から知らされ参列した。私33歳頃のことで、今では死後約50年になる。後に話す機会があるが、私の持っている父親像とこの異母妹弟が持っている父親像が全く違っているのには驚いたことがある。


 母は京都府八木町(現)の出、姉・兄(戦死)があり三番目の次女、農村(田舎)生まれだが、農作業をした覚えがないと言っていたから、よほどお嬢さん育ちだったのかも。京都の女学校で学び、父と見合い結婚、女-男-女-女の4人の子供を設けた。
 母方の祖母には随分お世話になった。私28歳ころ、100歳近くで亡くなり葬儀にも参列した。母方祖父の事は今となってはわからない。
 私が小六に上がる春、離婚、以後女手一つで子供4人を育ててくれた、この「離婚」について母に聞いたが、あまり話したくなかったようだ。父の死後のある日、二人の姉が母を訪ねてきたことがあり、また、父も死の前に尋ねてきたことも聞いた。それで私にもことの真相がだんだんわかってきた。
 30年ほど勤務していた学校の用務員を定年退職、晩年は独り暮らしであった、90歳の誕生日を迎えた後、子供4人に見送られて旅立っていった。母の住まいは、私の一番下の妹夫婦が移り住み引き継いでくれている。

<続く>

 

 

newNAPPAFUKU-21 (20210620)

newNAPPAFUKU-21 (20210620)
前20号から続く

③ファンクションゼネレーター(超低周波発振器)
 これも自社製品だったが、私班が担当することになった。いくつかの製品で研究部とのつながりで技術部を通さずに直接製造部門に下ろされた製品で前号②パルスカウンターに続く2つ目の製品だった。

 今ではIÇ一個で主要部分ができてしまうが、当時は真空管を沢山使った最新発振器で、方形波・三角波・サイン波の三つの波形出力が得られる。
 簡単に原理説明すると最初に方形波を発振させ、これを積分して三角波に変え、三角波をまるめてサイン波に整形する、という発振器で特徴は低い周波数0,01Hzから0,001Hz程度までの低い周波数(超低周波)を発振することができる。
 今でも自動制御関係ではこの発振器が使われているが、オーディオでもDCアンプが出現して使われるようになた。
 特注品もあり、周波数を1桁下げる、log出力をつけるなどがあった。これらの特注対応は私班で対応したので、わからないことは研究部に教えてもらった。周波数を下げるのは割と簡単だったが、コンデンサーの選別や高品質化が必要だった。ハーメチックシールコンデンサーをはじめて使った。

(このコンデンサーは今でも高級真空管オーディオ製品に使われているようだ)

 0.01や0,001Hzはどのように周波数を調整確認したか?、最低の0.001Hzは1周期1000秒(約16分)の波形である。これはアナログレコーダで描いて確認した。
 問題はLog出力だった。原理はサイン波の作り方と同じやり方でできると教えられ、実験したが・・・、いうほどうまく出来ない、結局はlogカーブ可変抵抗を特注し、周波数用可変抵抗と連結してできた。このやり方は後に他製品で役立つことになる。

 

 今日のファンクションゼネレーター

ファンクションジェネレータ - Wikipedia

 

 

④糸むら試験機
 S社の製品、P社の外部顧問技師A氏が試作、この製品化に携わった。これもなぜ製造畑の私の下やってきたのか?
 簡単に測定原理を説明すると、静電容量(コンデンサー)中に糸を通してその容量変化を検出して糸の太さの変化(ムラ)を測定する装置である。この試作機でS社担当技術者が測定データを取ってS社技報に発表された。当時、糸むら試験機は外国のU社製が業界スタンダード機で糸むら単位はU%と呼ばれた。それに習ってS社がS%として開発した製品、P社からA顧問技師に設計依頼されたのでP社技術陣は関係してなかった。それで製品化にあたってS社担当の私に白羽の矢が当たったのかもしれない。
 一号機が岡山県井原市にある繊維試験所に納品された、で設置に行くように指示があって出張となった。まだ新幹線の無い時代、前日岡山駅前に1泊して井原市に向かった。試験所に到着すると10名ほどの技師が待ち構えていて準備万端ととのっていた。しかしここからが問題だった。「これでは設置することは無いが?」と思っていると、長らしき方が、「S社から取扱説明に来てもらったのでよく聞いてほしい」と、「エツ!」とびっくり仰天した。出張指示は設置だったはず、取扱説明なんて聞いてなかった。工具は持ってきたが、取扱説明の準備は何もしてない、これには大変あわてた。実は私は製作し電気的な調整はしたが、実際の糸を通してのテストはS社技術者がしたので実際の使用方法は、試作品の説明時に少し聞いたことしか知らなかった。私20歳過ぎのことで相手は試験所のそうそうたる年配の技師達であった。S社から設置に行けと指示を受けた下請けの者だから知らない、とは言えない雰囲気になっていた。意を決して知ってることを全部説明しようと開き直り、電気的測定原理からはじめて操作説明(相手が電気屋ではなかったのが幸い?)ここまでは何とかなったが、さて糸を通して測定という段になった。そのとき助け船が現れた、担当者と紹介された方が、「それは私がやります」といって測定準備され測定がはじまった。「ああ助かった!」と、無事に説明が終わり、最後に質問、先にあった「U%とS%との違いは」「再現性は」「温湿度の影響は}など、何と答えたのか覚えてないが、それなりに納得していただいたようで、無事に終わった。
 帰りは山陽本線笠岡駅までバスに乗ったが、疲れ果てて最後尾席で寝込んでしまった。駅についた後、バスが車庫に入ってから運転手が気ついてたたき起こしてくれた。
しかし、この試験機は何台作ったのかなぁ?たくさん作った覚えがない。

 

 井原市 (city.ibara.okayama.jp)

 該当する繊維試験所を探したが見当たらなかったので井原市HPです、

60年も前の事だから岡山県工業技術センターに統合されたのかもしれない

岡山県工業技術センター (pref.okayama.jp)

newNAPPAFUKU-20 (20210619)

newNAPPAFUKU-20 (20210619)

 

 早いもので第20号まで進んだ。

 この「new NAPPAFUKU」は自分の「人生のプログラム」を訪ねる物語である。


 大学受験失敗後、業務に精励した、その前後に担当した仕事を思い出して掲載する。これは自慢ばなしのように聞こえるかもしれないが、そうではなく「人生のプログラム」の一つとしてとらえていただければと思う。

 

「この仕事はなぜ自分の下にやってきたのか?」

話が長くなるので➀②と③④の2回に分ける。

 

同軸ケーブルの使い方
 TV用ブラウン管試験機を作った。この仕事は本来なら他班が担当する製品であるが、なぜか私班で担当することになった。その中にTV映像信号をブラウン管試験用の10個の端末へ伝送する配線がある、これに同軸線3Ç2Vをつかって配線した。全長は30mくらいだったか。
 各部のテストをしたが、その中にこの映像信号を送るテストがあった。各端末に映像信号がきちんと届いているかの周波数特性である、測定器を使って測定データを取った、映像信号なので確か4.5MHz信号、測定してみるとこれが端末まで届いているところもあるが届いていないところもあり規定内に入らない。配線は間違ってないし、どうしてもその原因がわからなかった。それで信頼する研究部の先輩OK氏に、無理をお願いし日曜日に出勤してみてもらった。
 一通りの測定状態を見てもらて、「配線はどうなってるのか?」と聞かれて説明したところ、「そらあかんで」と一言、実際の配線はTV映像出力信号出口から1本で出て試験端末が上5台、下5台に分かれているので一本線を上下2本に別け、そこから中継して(枝分かれ)各端末に配線してある。(言葉でわかりにくいが)結論から言えば、2本線で上下平行に配線したのではダメで、最初から最後までずーと一本線で引っ張り、途中から枝分けして各端末へいれる、とのことだった。それで引っ張り直して再測定、そうしたら「あーら不思議!」各端末には規定の信号が来ているのが確認できたではないか。そして、同軸線の末端(終端)には75Ωでターミネートする、というのが正しい配線方法だったのである。

 回路図には75Ωもなければ、配線方法も書いてない、接続線は描いてあるが両端の端末が記載して途中は省略してある、注意事項もない。これは初めて知った同軸線の配線ノウハウであった。
 オーデイオでは大先輩であったOK氏、さすがだ。ついでにオーディオ回路とTV映像信号の分配(信号伝送)の違いも教わった。この時の説明は今も私のアンプ製作に生きており、私の配線方法(線の引き回し)は、一般的な配線方法とは一寸違うところがある。

 

②パルスカウンターの製品化
 これも何故だか私のもとにやってきた製品で真空管を使ったパルスカウンター(カウント数や周期を測定する装置)、これはシンチレーションカウンターを手掛けていたから私の下にやってきたのだと思うが。

 その頃はまだ豆ネオン球を10個縦に並べてどこに点灯するかで数値を表していた、数字表示管(ニキシー管)が開発される前である。
 研究部で試作品ができて、それを見ながら製品化することであった、筐体や板金加工は元図があり、製作しやすいように設計変更したが、問題はカウンターユニットであった、これには10MHz、1MHz、 100kHzの3種類あって、順に並べて8桁を構成する。つまり10M-1M-100k-100k-・・・とユニットを8桁分並べる。

 当時はまだプリント基板が無く厚いベーク板を加工して基板のようにしてつかっていた。
 簡単な100kユニットには真空管5本(だったか?)だが、問題は複雑な10Mユニット、真空管は倍の10本程使ってあり、組み立ても複雑、簡単に10MHzで動いてくれない、うっかり配線を間違うと後のやり直しが出来ないので使いもののにならないという代物であった。

 今ではオーディオ用真空管としてよく知られている「6BQ7A」「6DJ8」「5687」などが使われていた。しかも球を選別しエージングしないと10MHzで安定に動いてくれなかった。この時初めて真空管の入力容量、内部抵抗、スイッチング速度など、オーディオにはあまり影響ないこともパルス回路では随分影響することがわかった、結局、配線方法(短く配線)、球の選別、エージングが安定動作に大切なことがわかった。

 この時に、今ではOTLアンプによく使われる「6080」(当時は最新の球)を定電圧電源レギュレーター管に初めて使ったのがなつかしい。(高価な球だった!)

 

 

newNAPPAFUKU-19(20210618)

newNAPPAFUKU-19(20210618)

起業のキッカケ
 

 話は戻るが、京都府鴨沂高校定時制を卒業したのは1958年(S33)、その1年後に大学を目指し某国立大学工学部計測工学科を受験したが、見事失敗!。その受験帰りの電車の中で、このままではとても歯が立たない、試験は数学が滅法難しかったが他の8教科は何とか70点台は取れているはず、と慰めて再度目指すか否か考えた。国立大工学部はとても無理で某私立大工学部第Ⅱ部(夜間制)をとも考えたが、仕事を続けながら大学進学はムリがあるときっぱりあきらめ、それでは「独立(起業)しよう!}とこころに決めた。これが最初。
 

 これにはわけがあった、1年前の事、定時制高校卒業時に同期生5人が、上司である取締役製造部長に「高校へ進学し、無事卒業できたことをお礼しよう」と卒業証書を持って挨拶に行った時の事である、一通りのお礼をして、卒業証書を見ていただき、「よく頑張った」とお褒めをいただいたまでは良かったが、この後の話「・・・」、は支障があるので割愛するが、私たちが思いもよらない言葉が返ってきた。

 「この会社はあかんなぁ」と5人ともが思ったことだった。そしてその後6~8年の間に私が先陣を切って辞め、次々と同期6人の内5人までが辞めてしまった。
 
 話を元に戻して、卒業時の上司の言葉に衝撃を受け、大学を目指したが受験失敗したことが独立起業を意識するキッカケとなったが、しかし20歳ではまだ早いし、企業のことは何も知らないので後5年間は会社で勉強さしてもらおうと考えて業務に精励、無遅刻無欠勤を通し、新しい仕事にも積極的に取り組んでいった。スキーや登山にも行った。オーディオもなけなしの小遣いをはたいて自作した。
 会社は別の場所に新工場が竣工し、自社製品関係はそちらに移ったが、S社の仕事が主であった私は本社に残ることになった。新工場は会社にとっては大きな投資であったが発展していった。
 

 さて、起業独立を意識したが経営の勉強はどうしたらよいのか?とよくわからないままであったが、本屋で「経営学入門」(*)というのを見つけて勉強し始めた。そして、その機会がやってきた。
 

 それは1964年(S39)10月(前回)の東京オリンピック前後の不況時だった。オリンピックで浮かれすぎた分落ち込みも激しかったのであろう、それまで山のようにあった仕事がアッと言う間に消えてしまった。主だった人が辞め。社外に出向させられる人・・・会社もピンチに見舞われた、私が担当していた仕事もしかりで、することが無くなってしまった。会社をやめるなら今がチャンスかも、と考え1965年(S40)8月(26歳時)に退職、11年余りお世話になった会社に別れを告げた。仕事や独立の当てがあったわけでは無いので、しばらく義兄の電気工事仕事を手伝った。
 仕事をするように勧めていただいたのは、かってのP社先輩NS氏、担当していたS社やK社からもP社を通してやらないかと勧められた。わずかな退職金を基に小さなおんぼろ掘立小屋を借り、かつての部下OY君一人を誘って二人で個人創業したのは翌年の1966年(S41)1月(27歳)の事だった。今風に言えばガレージ起業である。ちょうど不景気風が去って景気が上向いてきた頃でタイミングがよかったのであろうか、S社関係を中心に仕事が始まった。

 

参考までに:文中に出てきたところの現在のホームページ
➀「経営学入門」は坂本藤良著はこちら
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E8%97%A4%E8%89%AF
記載内容の一部を引用:
 1958年、一般に向けて平易な文章で書かれた『経営学入門』(光文社)が爆発的に売れ[3]、広範な経営学ブームを巻き起こした。後に作家の井上ひさしが昭和33年を代表する本として取り上げている[* 11]。以後「経営学の神様」とよばれ[4]、講演・執筆等に八面六臂の活躍をし、多くの著書を残した。

②S社はこちらです
https://www.shimadzu.co.jp/

③卒業した高校はこちらです
http://www.kyoto-be.ne.jp/ohki-hs/mt/

④某国立大学はここです
https://www.nitech.ac.jp/

⑤某私立大学はここです(現在Ⅱ部は無い)
http://www.ritsumei.ac.jp/

⑥私が在職したP社は1999年頃に倒産したのでHPはないが、その後を引き継いでいる会社のHPです
https://www.pantos.jp.net/

 

newNAPPAFUKU-18 (20210517)

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 オーディオ用真空管マニュアル(現行版)

一木吉典著ラジオ技術社刊(現インプレス社)

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ベルトドライブレコードプレーヤについて
http://www.analog-player.com/record-player/systems..html 

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下請け仕事

 班長代理を仰せつかってから下請け仕事が多くなった。S社からの図面や材料支給あり、仕事の内容は大変高度であったと思う。その四つの例を

 

その①「シンチレーションカウンター」
 1954年(S29)米ビキニ水爆実験で「第五福竜丸被ばく」事件があり、マグロが汚染されているとのうわさがあった。その関係で放射能測定器が注目を浴びて生産台数が多くなってきた。その頃は既にMT管時代、真空管がづらりと並んだ最新の放射能測定器であった。一種のパルスカウンターで最新技術の詰まった製品「シンチレーションカウンター」(通称1000進スケーラー)だった。
 その組立調整のためS社へ勉強に行った、担当技術者H氏から懇切丁寧に教えてもらって、当時の私の頭では理解不能なことが多かったが、何とかついていった。例えばフリップフロップ、ワンショットマルチ、10進カウンター、微分積分回路、高電圧発生回路、定電圧電源回路など、およそオーディオには関係無いが、実に様々な回路。しかし、面白く興味深々だったのでさほど困難は感じなかった。
 それでS社に気に入ってもらったのか、次々と新しい製品が指名でいただけるようになった。S社との交渉事もするようになりお金の話以外、つまり納期などの工程管理、納期折衝などS社の担当者からは私に直接電話がかかってくるようになった。営業も上司もお金以外は私に任せきりだったようだ。しかし、自分で約束したことは守らなければならなかったことはつらかったなあ~!。「納期厳守!」はその頃身について、その後の起業にも引き継がれた。
 この「1000進スケーラー」は後に「100進スケーラー」の開発を任されることになった。1桁減らしたらよいだけではないか、と簡単に引き受けたが、コストダウンしなければならないため、簡単ではなかった。しかし何とか目標に収まった開発品ができた。電気回路から筐体板金設計まで手掛けた私の開発設計製品第一号となったが、以前、設計助手をしていたことが随分役立った。しかし技術部があるのに、なぜ製造部の私に開発指示があったのかは?だったが、後に聞いた話では技術部が断ったので、S社H氏から「私にさせよ」と依頼があったということだった。

 

その②「㏗計」
 S社他部署の仕事があった、担当技術者がオーディオファンで、プレーヤーはベルトドライブが良い、と盛んに教え込まれたことがあった。この技術者OS氏は、後にS社副社長まで昇進された方である。製品も難しく、今で言うと㏗計(ペーハーメーター)の一種で回路は簡単だが、真空管DCアンプで構成されたこの製品はDCドリフトに悩まされた、それでNEC滋賀県大津市石山にある新日本電気?だったか)に真空管のことを教えてもらい何とか解決したことがあった。この時のNEC技術者が、真空管オーディオ愛好者のバイブル「オーディオ用真空管マニュアル」の著者、一木吉典氏であったのはずーと後に知ることになる。
 
その③「データーレコーダ」
 放医研は現在も存在している
https://www.nirs.qst.go.jp/index.shtml

 出張にもよく行った。その一つ、放医研向けの大型業務用磁気テープレコーダを使った「データーレコーダー」を納品しメンテンスに同行することになった。レコーダはTEAC(当時名は東京テレビ音響だったか?)製、設計開発は技術部、製作担当は私班であった。先に述べた「1000進カウンター」で教えてもらったH氏からのご指名で手伝い出張となり、数日間寝食を共にした。この時もいろいろ教ることが多かったが、これにつながる本体、放射線測定スキャナーは初めてだった、磁気テープレコーダーに「ドロップアウト」現象があるのを初はめて知った。これは私の手に負えないので後にTEACにメンテナンスを頼んでもらった。

 

その④蛍光X線分析装置
 八幡製鉄(当時名)の「蛍光X線分析装置」の仕事で、納品後1か月余り長期据え付け出張作業となった。この装置も製作担当したが、その頃一般的になってきたトランジスタを沢山使った難しくて大掛かりな装置だった。トランジスタを初めて勉強即製品という経験だったが、この時親しく教えてくれたS社技術者I氏が後に起業、京都では注目のベンチャー企業として「アイボット」技術でデビューしたが、数年後に倒産。彼は郷里に引っ込んでしまったとのことだった。この話は後号の倒産物語でふれることに。
 
 まだいくかのエピソードがある、また機会があれば掲載することにするが、このような経験は他の班では出来なかったことだ。これらの経験が起業後に大変役立ったことはいうまでもないが、その時には、何で自分にこんな仕事が回ってくるのか?全く分からなかったことである。

 

 後に足跡を振り返ってみて、初めて「人との出会いや出来事に遭遇するのは意味があった!」ことが分かり、間違いなく自分が歩いてきた一本道が今の自分につながっていることがわかってくる。どなただったかの言葉にあった「人生に何一つ無駄なことは無い」