newNAPPAFUKU-18 (20210517)

newNAPPAFUKU-18(20210517)

 

 オーディオ用真空管マニュアル(現行版)

一木吉典著ラジオ技術社刊(現インプレス社)

f:id:arunas001:20210616222835j:plain

 

ベルトドライブレコードプレーヤについて
http://www.analog-player.com/record-player/systems..html 

f:id:arunas001:20210616205439j:plain

 


下請け仕事

 班長代理を仰せつかってから下請け仕事が多くなった。S社からの図面や材料支給あり、仕事の内容は大変高度であったと思う。その四つの例を

 

その①「シンチレーションカウンター」
 1954年(S29)米ビキニ水爆実験で「第五福竜丸被ばく」事件があり、マグロが汚染されているとのうわさがあった。その関係で放射能測定器が注目を浴びて生産台数が多くなってきた。その頃は既にMT管時代、真空管がづらりと並んだ最新の放射能測定器であった。一種のパルスカウンターで最新技術の詰まった製品「シンチレーションカウンター」(通称1000進スケーラー)だった。
 その組立調整のためS社へ勉強に行った、担当技術者H氏から懇切丁寧に教えてもらって、当時の私の頭では理解不能なことが多かったが、何とかついていった。例えばフリップフロップ、ワンショットマルチ、10進カウンター、微分積分回路、高電圧発生回路、定電圧電源回路など、およそオーディオには関係無いが、実に様々な回路。しかし、面白く興味深々だったのでさほど困難は感じなかった。
 それでS社に気に入ってもらったのか、次々と新しい製品が指名でいただけるようになった。S社との交渉事もするようになりお金の話以外、つまり納期などの工程管理、納期折衝などS社の担当者からは私に直接電話がかかってくるようになった。営業も上司もお金以外は私に任せきりだったようだ。しかし、自分で約束したことは守らなければならなかったことはつらかったなあ~!。「納期厳守!」はその頃身について、その後の起業にも引き継がれた。
 この「1000進スケーラー」は後に「100進スケーラー」の開発を任されることになった。1桁減らしたらよいだけではないか、と簡単に引き受けたが、コストダウンしなければならないため、簡単ではなかった。しかし何とか目標に収まった開発品ができた。電気回路から筐体板金設計まで手掛けた私の開発設計製品第一号となったが、以前、設計助手をしていたことが随分役立った。しかし技術部があるのに、なぜ製造部の私に開発指示があったのかは?だったが、後に聞いた話では技術部が断ったので、S社H氏から「私にさせよ」と依頼があったということだった。

 

その②「㏗計」
 S社他部署の仕事があった、担当技術者がオーディオファンで、プレーヤーはベルトドライブが良い、と盛んに教え込まれたことがあった。この技術者OS氏は、後にS社副社長まで昇進された方である。製品も難しく、今で言うと㏗計(ペーハーメーター)の一種で回路は簡単だが、真空管DCアンプで構成されたこの製品はDCドリフトに悩まされた、それでNEC滋賀県大津市石山にある新日本電気?だったか)に真空管のことを教えてもらい何とか解決したことがあった。この時のNEC技術者が、真空管オーディオ愛好者のバイブル「オーディオ用真空管マニュアル」の著者、一木吉典氏であったのはずーと後に知ることになる。
 
その③「データーレコーダ」
 放医研は現在も存在している
https://www.nirs.qst.go.jp/index.shtml

 出張にもよく行った。その一つ、放医研向けの大型業務用磁気テープレコーダを使った「データーレコーダー」を納品しメンテンスに同行することになった。レコーダはTEAC(当時名は東京テレビ音響だったか?)製、設計開発は技術部、製作担当は私班であった。先に述べた「1000進カウンター」で教えてもらったH氏からのご指名で手伝い出張となり、数日間寝食を共にした。この時もいろいろ教ることが多かったが、これにつながる本体、放射線測定スキャナーは初めてだった、磁気テープレコーダーに「ドロップアウト」現象があるのを初はめて知った。これは私の手に負えないので後にTEACにメンテナンスを頼んでもらった。

 

その④蛍光X線分析装置
 八幡製鉄(当時名)の「蛍光X線分析装置」の仕事で、納品後1か月余り長期据え付け出張作業となった。この装置も製作担当したが、その頃一般的になってきたトランジスタを沢山使った難しくて大掛かりな装置だった。トランジスタを初めて勉強即製品という経験だったが、この時親しく教えてくれたS社技術者I氏が後に起業、京都では注目のベンチャー企業として「アイボット」技術でデビューしたが、数年後に倒産。彼は郷里に引っ込んでしまったとのことだった。この話は後号の倒産物語でふれることに。
 
 まだいくかのエピソードがある、また機会があれば掲載することにするが、このような経験は他の班では出来なかったことだ。これらの経験が起業後に大変役立ったことはいうまでもないが、その時には、何で自分にこんな仕事が回ってくるのか?全く分からなかったことである。

 

 後に足跡を振り返ってみて、初めて「人との出会いや出来事に遭遇するのは意味があった!」ことが分かり、間違いなく自分が歩いてきた一本道が今の自分につながっていることがわかってくる。どなただったかの言葉にあった「人生に何一つ無駄なことは無い」