newNAPPAFUKU-23 (20210622)

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写真:小4頃、この頃から眼鏡をかけていた。肩のところに「京都真空工業研究所」の看板が見える、左は看板を拡大したもの

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「人生の足跡」

 私の一家は、祖母ー父母ー子供4人の家族構成、それに奉公にきていたお手伝いさんがいた。私は2番目の長男として1938(S13)年9月20日に生まれた。この生まれた年月も順番も性格形成に大きく影響する。

 生誕地は京都の観光地である嵐山の近く、現在のJR嵯峨嵐山駅西側の丸太町通り付近である。ここで終戦まで住まいしていたが、終戦後に転居したので住まいは他者の手に渡っていた。立派な邸宅だったが、2年前、記憶を頼りに訪れたとき、駅前再開発ですっかり変わっていて生家が無くなっていたのには驚いた。他人の手に渡ったとはいえ自分の生家が無くなっていたのは少し寂しく残念なことであった。

 

 S18年ころから日本の敗戦色が濃くなってきた。そんな頃、母の実家へ妹と二人が預けられた(疎開)。母方祖母の世話になり、同じ年頃の子供3人と一緒に育てられた。私5歳、妹3歳ころの事である。ここでの田舎生活は1年半ほどだったが、その後の私の性格にかなり影響したと思っている。


 翌年(S20)春、田舎の小学校(当時は国民学校)入学、その夏に終戦を迎えた。近所の人たちが村の大きな家に集まり、土間に正座してラジオから流れる天皇終戦放送(玉音放送)を聴いた、大人が涙を流していたのを覚えている。そして嵯峨へ戻り2学期から地元嵯峨小学校へ、その年の秋に京都御所の近く寺町丸太町に引っ越し、春日小学校へ転校した。

 

 この頃からの話。父は定職に就かず、最初は古物商をしていたようで、祖父から引き継いだ家財を切り売りしていたらしい、その後友人と「京都真空工業研究所」を立ちあげた。これはカメラのレンズをコーティング(真空蒸着)する仕事だったが、うまく仕事につながらなかったようだ、そのあと写真屋をしたがこれもうまくゆかずに商売はやめて後は仕事してなかったのではないかと思う。

 「京都真空工業研究所」の話に戻るが、この時は私小4~5年生ころで、看板が写っている写真が残っている。この仕事は、チャンバーの中にレンズを置いて真空に引き高電圧をかけて放電させ真空蒸着する仕事だったようだ。
 子供ながら面白そうだったので仕事を手伝ったことがあった、父もうれしそうに教えてくれた。この仕事がうまく行かなかったのは、ずっと後、母に聞くと、この仕事を一緒にすることになっていた父の友達に騙されたと言っていた、が真相はわからない。戦後のどさくさ紛れの時だからいろいろあったのではないかと思うが、仕事はS社(私が後に世話になったS社)からくるはずだったが、機械(設備)だけ買わされて仕事は何もこなかったといっていた。

<続く>