newNAPPAFUKU-17 (20210616)

newNAPPAFUKU-17(20210616)

写真:文中に出てくるピッカリングアーム(左)

(WEBより拝借した)

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仕事や立場の変化


 前号は定時制(夜間)高校時代の話題であったが、その間職場には随分変化があった。
 

 まず会社の所在地が変わった、入社して3年目だったと思うが、京都市内を流れる旧跡高瀬川の源流、木屋町二条にあったのが、西方の西大路太子道に引っ越した。その影響で学校へも遠くなった、当時、通勤通学定期(通称三角定期)があり京都市電は「自宅ー会社ー学校」と利用できた。しかし、通勤に時間がかかり、朝の通勤ラッシュ満員電車には閉口した、遅刻しないように早めに出勤したが、以前より30分早く出ないと間に合わなかったのはなかなかつらいことだった。

 

 工場が移転して広くなり社員数も増えてきた。私は事情があって設計助手から製造現場へともどしてもらっていた。中卒で入社した後輩も多くなり、仕事も増えてきた。

 製造現場は班組織になり、1班3~4人の4班構成となった。高校4年生の春頃からだったと思うが、1年先輩の2人が2班を持ち、あと2班は私と同期の一人が持つことになり班長を任じられた。この時、辞令をもらって、初めて同じ役職に班長代理→班長心得→班長(正)と三段に昇進することが分かってびっくりした。最初は班長代理の立場だったが、することは同じなのに?と思ったことだが、班長代理のなんたるかの説明は無かったような気がする。

 

 班ごとに担当製品も決まり、私は前から担当していたこともあり、S社の下請け部門をもつことになった。他の3人は大型製品や自社製品を担当して格好よく見え多少不服でもあった。が、しかしこれが、他の3人の班長には経験できないことがあって、起業後に随分役立つことになるとは思ってもみなかった。

(これは次号で触れる)
 
 ある時、会社の何かの行事で「LPレコードコンサート」がひらかれた。先輩OK氏の進行で始まったが、その時に初めて「ピッカリングやMMカートリッジ」を知った、プリ・メインアンプもOK氏の自作「807ppウイリアムソン型」(アンプの説明があった)は格好良かった。曲目は「ベートーベン/ピアノ協奏曲第5番・皇帝」(たぶんバックハウス、モノラル盤)、これは初めて聞いた曲であった。スピーカは何だったかな?かなり大きなものだった。

 

 ステレオLP盤が一般的に普及してきたのは、この後だったような気がする。調べると日本で初めてステレオLP盤が発売されたのは、1958年(S33)とある、45/45方式に統一されて普及するようになったのは、その3年後くらいからだった。価格は3000円前後だったと思うが私の給料が8000円頃の話だから随分高価だった。しかし、これからオーディオ黄金時代がやってくることに。

 

 LPレコードの簡単な歴史はこちらをご覧ください
https://www.niikappu.jp/kurashi/kyoiku/bunka-sports/record/history/nenpyou.html

newNAPPAFUKUー16(20210615)

newNAPPAFUKUー16(20210615)

定時制高校時代のこと

 

写真:文中に出てくる「8PW1ゲンコツ」と「C-5」(写真はwebから借用しました)

 

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アカイ Ç-5 (モーターはバリアブルスピード型)

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 定時制高校の修業年限は4年、通常の高校(昼間3年制高校)からすると1年長い。「昼働いて夜勉強する」というと聞こえは好いが、実態は食い扶持を得るため、家計を助けるために働き、学資も自分で稼ぎ、夜に学校へ来ても昼間の疲れで授業中は居眠りといった状態であった。入学した当時はクラスに60人以上在籍していたが、半年もたたない間に45人ほどに減ってしまった。続けることが難しくなったのかもしれないが、会社に内緒で学校に来ていた人たちもあり、時制高校へ行ってることがばれるとクビになると言われた時代であった。私の場合は、求人条件に「定時制高校通学可」とあって幸い会社に理解があったのでクビになることはなかった。

 そして4年後に卒業したときには30数人と入学時の半分に減っていた。年齢層も上は25歳くらいのクラスメートもいた、職場もさまざまで、個人商店もあれば大きい会社や百貨店、病院などいろいろであった。また地方から京都に就職して1年遅れで入学した友、夜間中学から進学してきた友もあったが、皆同じような境遇だったので学校で顔を合わすのが楽しみであった。

 

 文化祭には4年間クラスで参加した、演劇2回、合唱2回の参加でクラスも盛り上がった。演劇には達者な級友がいて、スタッフ、キャストともメンバーがそろっていた、私は4年間クラス代表だったので総監督に、クラス全員が出演できるようにと考え、中学時代に習った舞台装置つくりに腕を振るったり、舞台裏でセリフの声掛けや擬音操作もやったのが楽しい思い出である。

 

 確か4年生の頃だったと思うが、ホームルームの時間にLPレコードコンサートをやろうということになり、自作のアンプとプレーヤを持って行った。スピーカは放送部から借りたが、その頃ゲンコツの愛称で親しまれた「8PW1」であった。プレーヤは「アカイC-5フォノモータ」を使った自作プレーヤ、プリモ(?)アームとクリスタルカートリッジ、アンプは自作6V6シングル、LPレコードはクラシック通のSH君(3歳ほど年上)が持ってきてくれた、曲目は確かトスカニーニベートーヴェン「運命」だったような?まだモノラルの時代であった。「醍醐LPレコードコンサート」の原点がここにあった。
 

 振り返ってみるとこの4年間はしんどかったが充実した時期でもあった。クラスメートたちは仲良かった、在学中に結婚した女子があり目出度い話がある一方、退学者あり、在学中に自殺した友あり、卒業後すぐに病死した友、行方不明になった友、遠方へ転勤した友などいろいろなことがあった。
 そして、今日まで仲良くしている級友が10人ほどあるが時おり旅行や食事会を催したりして旧交を温めている。年老いても親しくしているのはありがたいことでこの時代の仲間は一生の友になっている。

 

 

 

new NAPPAFUKU-15(20210614)

new NAPPAFUKU-15(20210614)

電気屋駆け出し時代:初めての「立体放送」

 

写真は在職時代に自作した「50C5 SRPP」を復元したアンプ、 この元のアンプは若いころ最後の自作品となった。

 

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 仕事は何もかもが珍しく面白くて興味深々、瞬く間に半年が過ぎたが、しかし、定時制高校と仕事の掛け持ちの毎日は厳しかったようだ。半年ほどたった8月の盆頃、突然体調不良に陥ってしまった。朝は7時に起床8時前には自宅を出て会社へ、仕事が終わると学校へ、夜10時ころに学校を出て帰宅するのは夜の11時を過ぎ就寝12時というのが続いたからかもしれない。
 今風に言うとストレスからだったのかも、元気喪失、母が心配して病院へ連れてくれたが原因不明、便秘でしんどかった記憶がある。どうして直ったの記憶がないが、会社は幸い盆休み中だったので、欠勤はしなかった。
 それから何事もなく出勤できたが、秋から設計助手を仰せつかった。最初は図面トレースから始まり、先輩の書いた基本設計図からの展開、板金加工図の作成と進んだ、幸い中学時代に製図を学んでいたので、割とうまく描けていたと思う。設計の傍ら製品検査もやった。外注先から入荷する製品の検査が中心だが。何時もあるわけではないので、設計と検査を掛けもっていたようだった。この設計製図や検査業務は起業してから随分役にたった。

 

 当時は「初歩のラジオ」「ラジオ科学」「ラジオ技術」「電波科学」「無線と実験」などが発刊されていたが、「初歩のラジオ」と「ラジオ技術」を熱心に読んだ。初歩のラジオ」に倣ってラジオキットを買って数台作ったこともあった。

 

 入社した年だったが、この頃からNHK第一、第二放送電波を使ってステレオ放送があった、社長の粋な計らいで、昼休みを延長し、ラジオ2台を置いて聞けることになった。曲はベートーヴェン第九「合唱」、初めての立体放送は驚きの一言だった。

 調べてみると、NHKでは1952年実験放送が始まり、1954年(S29)に「立体音楽堂」として始まった、とあるので、この記念放送だったのかもしれない。関西では朝日放送毎日放送で立体音楽放送があった。

 

 私も2CHラジオコイルキットを買い、「50C5SRPP]2CHアンプを作り、スピーカも2個作った。しかし、せっかくつくったのに、立体放送はAMからFM放送へ移ってしまい、あまり長く使わなかったような気がする。 

  AM2CHラジオやアンプも発売された、今日ヤフオクで時折この頃のアンプが出品されているのを見かけることがあって懐かしい。

 

 

new NAPPAFUKU-14 (20210612)

new NAPPAFUKU-14(20210612)

 13号で写真を掲載する予定でしたが、昨年(2020)分をまとめて掲載していたページがあり、ここに主なものが出ていますので個別の写真掲載は割愛させていただきます。

 

 ここからの話は一挙に小・中学校時代に戻り、その足跡をたどることに。


写真:電蓄(Webから借用)

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 京都御所近くの河原町丸太町角にある春日小学校小四の頃アコーデイオンを習ったことを書いたが、小・中学時代に電気電子関係の仕事に進む芽生えがあった。

旧春日小学校
https://www.marutake-ebisu.com/other/kyu-kasuga.html 

 親父が戦前から電蓄を持っていた、床の間にも別の大きなスピーカが置いてあった。ある時、どこから声が聞こえるのかなと、不思議に思いスピーカの後ろに回って、箱の中に頭を突っ込んだことがあった。<中には誰もいなかった?!>子供の頭が中に入ったくらいだから。かなり大きな後面開放型スピーカ箱であった。それが見つかって、笑いながら叱られたようだが、こっぴどく叱られた記憶はない。SPレコードもいくつかあってベートーヴェン「運命」やタンゴ曲があったように覚えている。

 

 現在の銅駝美術工芸高校ホームページ(旧銅駝中学校)
http://cms.edu.city.kyoto.jp/weblog/index.php?id=300407

 

 昭和29年(1954年)4月「京都市立銅駝中学校」に入学した。(現在は京都銅駝美術工芸高校)新京極など京都の繁華街のはずれ、鴨川べりに立地する環境の良いところにある。クラブ活動は友人に誘われて陸上部に入ったが、盲腸炎にかかり切開手術、半年もたたない内に退部、図書委員を務めることになった。
 
 図書委員は学校図書館を運営する役目である、1年先輩にMK君がいて、いろいろ良く教えてくれたことを思い出す。
 ガリ版謄写版)印刷方法、ガリ版文字の書き方、キャッチコピーの作り方、学級新聞や文集の作り方、模造紙の使い方、製本の仕方、文化祭の看板や飾りの作り方・・・実にいろいろ教えてくれた。そのおかげで卒業時には文化賞なるものをいただいた。これも就職後や起業後に随分役立った。
 図書館顧問のKI先生は、数学、技術関係が専門で3年の時に製図でならったくらいで教科としては習うことがなかったが、図書館活動ではいろいろ教わることが多かった。
 図書委員は本を自由に見ることができた、「初歩のラジオ」とかラジオに関する本がいくつかあった、そんなある時、私が熱心に「初歩のラジオ」を読んでいるのを見つけて、「どうや面白いか?」と声をかけていただいた。「それなら、手伝え」と学校放送の機材の扱い方や先生が実験しているワイヤレスマイクのテストを手伝うことになった。

 学業成績は?だが、理科授業の時、磁石とモータの実験があり、先生から「モータはどうして回るのか説明しなさい」との指名、どのように説明したか覚えてないが、後に担任から聴いた話では、その時の説明がうまかったらしい。 

 考えてみるとこのあたりから私の電気関係に進む芽生えがあったようだ。
 

 中学卒業後の就職進路指導があったとき、図書館顧問のKI先生が電気関係が良いと強く推してもらったらしい。担任もそのことを聞いていたようで会社へ推薦状を書いて、事前の会社見学会にも付き添っていただいた。当時(S29年)はクラスの半数は進学、残り半数は就職組という時代であった。
 従業員30名ほどの電気・電子関係の小さな製造会社(某有名企業の下請け)に就職が決まり、卒業式の翌日から勤務することになった。昭和29年3月21日のことである、ここが電気屋見習いのスタートだった。(就職先:日本電気機材㈱;当時名、後に倒産して今はない)

 

写真は記事に関係ありません

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new NAPPAFUKU-13(202106011)

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写真:現在、全面的に修復しているアンプ:6L6GCpp(依頼品)を試聴している

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 写真:調整中

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 これまでにいくつかの真空管アンプの修復・修理を手掛けてきた。それらを写真でご紹介する。概ね最近のものから逆上っているが、順番はまちまちなのでご了承をねがいたい。

(*印:キットを含むメーカ品と思われるアンプ)

 

 これらの最近手掛けたアンプの修理の様子は、このブログ内に掲載しているのでご覧いただきたい。

 

オーディオ専科「7242 OTL」モノラル2台*
②LUX MQ-80(KMQ-80) 6336A CSPP (3台目)*
③LUX A3500 6CA7pp (数台目、依頼品)*
④LUX MQ-36 6336A OTL(2台目)*
⑤6C41Cpp (これは6C33Cppを改造した)
⑥12B4AフッターマンH-2 OTLモノラル2台
⑦KITA 6C33C×8 OTL モノラル2台+プリアンプ*
MATSUSHITA PA用50HB26ppアンプ 2台*

マッキントッシュ 4D32cspp(初期のCSPP、依頼品)*
⑩サンバレーSV-18D/OTL 6C41C OTL(依頼品)*
⑪ST氏から依頼されたアンプ類
 11-1 SANSUI AU-111(6L6GCpp)

    11-2   dynaco 6550 mono

 11-3 ONLIFE U-22 プリアンプ*

 11-4 6CA7pp stereo

 11-5 6CA7pp mono
⑫6C33C×4 OTL 宮崎式

⑬6C33C×4 OTL SDサウンド

⑭6C33C×8 OTL(先輩の自作)

⑮6336A×4 OTETONE

⑯26HU5×2 OTL
⑰35FV5pp クオード型
⑱フッターマン OTLアンプ OTL-3 mono2台*

マグソニック・フッターマンH-3型 40KG6A OTL *
6550Ase(エレキット)

㉑dynaco STEREO-70 6CA7pp

テクニクス20A 50HB26 OTL*

 

 ⑨以降の多くのアンプは、既に新しい愛好家の下に嫁いでおり頑張って働いている(と思っているが?)。

 

 そして、ここにはきっかけとなった「MC-30」は記載してないが、ほかにもおんぼろのA3500が1台、PA用アンプ2台、フッターマンH-2mono2台、解体してそのままになっているOTLアンプが2台、などなど、この他にも何台か記載してないアンプかあり、ラジオの修理を含めると全部で数十台になるかもしれない。そしてこの先にも数台のアンプが修理、修復を待っている。

 

  本人は、楽しみながらやっており、良い勉強にもなって自作する際には学んだことが役立っている。

 修理・修復に取り組むことは、良い勉強になるが、さらに、いろいろなアンプを手掛けていると次々と新しい発見があり、本人の工夫もできる、頭の体操にも、やる気の維持継続にも役立っている。これからも元気で頭がぼけないように続けていきたいものだ。

 

写真は次号から順次掲載します。

 

写真は下記に大部分を記載していましたので、こちらをご覧ください。

今年のオーディオライフの振り返り(10)

  ブログ記事編集 - はてなブログ (hatena.ne.jp)

 

 

new NAPPAFUKU-12 (202106010)

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写真:きっかけになった「MC30」

修理した時の写真が見当たらないのでNETから拝借した

 

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 「醍醐LPレコードコンサート」は、今はコロナ禍で中断状態である。また昨年10月に運転免許を自主返納したので、自分で機材を運搬する手段がなくなった。この先続けていけるかどうかわからないが、機材運搬にご協力いただける方があれば継続したいと思っている。

 

 傘寿(80歳)で引退後からは、先に紹介したハーモニカを習うことと、もう一つは真空管アンプの修理・修復を本格的に取り組むことであった。これまでは趣味として真空管アンプ製作を中心にオーディオを楽しんできたが、これはあくまで私個人の楽しみ事であって直接他者には役立っていない自己満足の世界である。しかし、他者に役立つことがあるとすれば、この趣味を通して役立てられそうで、それは失われつつある技術、真空管アンプの修理・修復ではないか、と思っていた。

 

 ことのきっかけは、何年か前のこと、京都のオーディオ友からマッキンMC-30(6L6GCpp)の修理を頼まれたことがあった。彼の言葉を借りると某有名店へ2度修理に出したが、満足に直ってこないし、びっくりするほどの修理代を払ったとのことであった。、
 修理費がかかるのはやむをえないとしても、某有名店でも満足に直せないし高くつくのは修理できる技術者が少なくなっているからではないかと思った。愛用されている真空管アンプを直して喜んでいただけるのであれば、なにか役立つことがありそうだと考えた。

 

 私の場合、仮に70歳から始めたとすると既に12年が経過していることになるが、本格的には80歳からなので実際は約3年しかたっていない。この後、どれだけ時間が残っているかわからないが、私的には90歳までは時間が残っていてほしいと願っている、その間にどれだけできるかやってみようと、放送大学終了後(70歳)からは少しずつ取り組み始め、引退後から本腰を入れて取り組み始めた。

 

  修理業を商売にすることも考えたが、事業活動は引退したことだし、これはあくまで趣味の範囲にとどめておこうと決めた。
 それで目を付けたのは〇オクである、古い真空管アンプ、遺品と思われる真空管アンプ、故障して放置されたような真空管アンプなどが出品されている。それらを買って直し再び〇オクに戻して新しい愛好家の手で活躍できるようにするのが真空管アンプにとっては良いのではないか、と思って始めた。

 

 始めるにあたって方針をきめた
・使った実績がある真空管を使ったアンプ、所持している真空管が使える
・自作、メーカ製のOTLアンプを中心に、トランスアンプは内容を見て
・メーカ製アンプは回路図が公開されているもの、手に負えそうな真空管アンプ

と自分勝手な、あくまでも趣味の範囲でと方針を決めて取り掛かった。

 

写真:最も手こずったフッターマンOTL-3 の修復

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<以下次号に続く>

new NAPPAFUKU-11 (20210609)

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70歳からの「醍醐LPレコードコンサート」開催

 

写真3枚は第42回(2019年12月)の様子、第43回は中止になっている。

曲目解説はピアニストの平沢匡明先生にお願いいたしました、

 

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コンサート用スピーカ

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会場の様子:多数のお客様にご参加いただいた

 

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 放送大学は70歳手前で何とか卒業できた。しかし、仕事もなかなかままならなかった、この放送大学在学中10年間の仕事に関することは差し支えることもあるので機会が有れば書くことにしてここでは割愛させていただくことにして。

 70歳からの課題は、自分の趣味や経験を生かして、何か他のために働けることが無いかと考え、それまで温めていた「自作真空管アンプによるLPレコードコンサート」を開催することであった。
 私の先輩でオーディオ師匠KN氏(故人)に相談とご協力をお願いして開催できる運びとなり、約10年間第42回まで開催できたが、昨今のコロナ禍で中止のやむなきにいたっている。事態が平常にもどれば再開したいと思っているが・・・・。

 

 実施に先立って準備のためのコンサートをもった。会場は地元にある「京都市醍醐交流会館」内の「音楽室(多目的室)」、入場定員20名37平米の小さな部屋であるが防音仕様なので大きな音を出しても他に迷惑を掛けないので大変好都合であった。(しかしデッドな部屋だ)
 オーディオ仲間や知り合いに声をかけて集まっていただいた方は15名にもなってびっくりしたことを覚えている。そして第1回を開催できる運びとなった。これらの記録は毎回ヤフーブログに投稿していたが、ブログサービス終了に伴い消えてしまったのは誠に残念である。

 

 「醍醐LPレコードコンサート」の基本的な開催要領を紹介すると
・開催頻度:年4回
・時間配分
 搬入設置:9時~10時
 自作品持ち寄り試聴会:10時~12時
 LPコンサート:14時~16時30分
・内容:午前中は自作アンプの発表試聴会、午後はLPレコードコンサートで
・使用機材:
 アンプ:主に私の自作真空管アンプ
 LPプレーヤー:ELP社製レーザーターンテーブル

 

 回を重ねるにしたがって、自作品参加者もコンサート参加者もだんだん増えて定員オーバーすることもしばしばになった、また、参加者は地元京都の方々はもちろん、近畿圏を始め遠くは東京・広島などから駆けつけていただいた方もあった。
 

 ご協力のおかげで参加者が多くなり会場に入りきれなくなってきたので、醍醐交流会館と相談したところ、会館との共催行事であればホールや大会議室を半額負担しますよ、との申し出で。その話にのることになり、それではと大ホールで共催することになった。
 さすが大ホールである、広い会場だから音響効果もよい、固定座席であれば200名が入れる。LPレコードコンサートには十分なホールであった。1回やってみていろいろ不都合もわかったので、やり方を変え、特に座席の問題があり取っ払らって平床にし、スピーカは舞台上では無く床に置く方が良く、自作真空管アンプも大出力OTLアンプ(6C33C×8ステレオ80W+80W)を使うことになった。
 12月には「第九コンサート」と名付け実施、沢山の参加をいただき好評を得た。
 (注:大ホールは座席を取っ払って平床にして最大80名程度の参加が可能)

  しかし、費用半額負担であるが毎回ホールで開催するには経費が嵩むので、年1~2回にして、他は会議室を2つをつないで使うことにした。ここは定員80名近くありこれでも十分であった。元々会議室なので音響効果は大ホールほど良くないが天井が高めなのでLPコンサートには十分、他の部屋とも離れているので、音が外に漏れて他に迷惑をかけることが無い、ということで会議室開催も好評であった。
 

 LPレコードコンサートのジャンルは、当初クラシックが中心であったが、ご協力者が現れ、ジャズ、歌謡曲と広がって、参加者も女性が目だつようになり年齢層も広がっていった。  

 

 「醍醐LPレコードコンサート」には、もう一つの目的があった、それはオーディオメーカ製品の紹介をすること。つまり、オーディオ機器メーカーからデモに来ていただくことであった。
・第3回にはLPレコードコンサートに使っている「レーザーターンテーブル」のメーカー:ELP(エルプ)社様の社長に埼玉県からお越しいただいた。
・10回目には平面スピーカーメーカのFAL(ファル)社様も東京から社長が高級スピーカーを運んで来てくださった。
 その後も、地元京都の各メーカ、
・現在国産唯一の真空管製造メーカーである高槻電器工業様が真空管300Bとそれを使った真空管アンプのデモ、
・業務用音響機器メーカーTOA様のスピーカーデモ、
・スピーカメーカーのタイムドメイン社様の新発売陶器製スピーカ「華」

 などのデモをお願いして好評を博した、少しはメーカ様のお役にも立てたかなと思っている。
 
 しかし、このように第42回まで開催できたが、2000年3月15日開催予定であった第43回は、コロナ禍が広がり、やむなく中止、今に至っている。

 一日も早くコロナが収束してコンサートが再開できることをこころから願っている。

 

 このはてなブログ内に「醍醐LPレコードコンサート」として開催案内。や実施内容の一部が掲載されているのでご参考にしていただきたい。

 

注:ご協力いただいた方々のホームページ
京都市醍醐交流会館HP
https://www.daigo-koryu.jp/

 

レーザーターンテーブル製造販売のエルプ社様のHP
https://laserturntable.co.jp/turntable/

 

FAL社様HP
http://www.fal.gr.jp/

 

高槻電器工業様HP
http://www.takatsuki-denki.co.jp/products/300b-amp.html

 

TOA様HP
https://www.toa.co.jp/products/prosound/speakers/

 

タイムドメイン様HP
https://timedomaintechnology.com/