newNAPPAFUKU-22 (20210621)

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写真:母と私2歳頃

 

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 「人生のプログラム」スタート

 「人生のプログラム」を考える時、先祖代々から連綿と続く家族の系譜、肉体的特長や遺伝子は親から子、子から孫へと代々引き継,がれてゆく。時代や環境の影響を受け、その中に一人一人に「人生のプログラム」があり、それが交わり会いながら一生涯を生きてきたと考え、話は一気に幼い頃に戻る、

 

 これは80年も前の事なので記憶違いや時期の思い違いもある。また。私事であり、当時の私が見たり聞いたり感じたりした家族の風景なので間違いや誤認があるかもしれない。

 

人生の始まり(人生プログラムスタートの頃)

 

 祖父の出身は、京都府の北、福井県若狭湾に面した小浜市(現)。京都に出て染色関係(絞り染)で成功した人らしい、立派な風格の写真が私のオーディオルームに飾ってある。私が生まれる1年ほど前(S12)、50歳くらいで亡くなった。その翌年に私が誕生(S13)したので、祖父は私の顔を見ていない。祖父の里、小浜で祖父の法要があった時に連れてもらった記憶がある。


 祖母は滋賀県大津市(現)の出身、京都・山科の料亭(最近まで存在した)に奉公に出て、祖父と結婚した。終戦直前のS20年春に亡くなったが、私は田舎に預けられていたので知らされてなかった。4人の子供の面倒をよく見てくれ、戦争で食料が乏しくなって、庭の畑で作ったサツマイモやカボチャの種をおやつにして食べさせてくれた。

 

 父は三番目の長男として生まれ、二人の姉と妹があり、妹は幼いころに亡くなった。ずっと後に分かったことだが、父は祖父がお妾さんに産ませた子で生後すぐに入籍したらしい(母の話)。この時代にはよくあったことのようだが、このお妾さんの話はずっと後年に母から聞いたことなので、詳しいことはわからないままである。もしこれが事実なら私の系譜の片側にはこのお妾さんの血が流れていることになる。
 電気系の学校へ行った様で、ラジオを作っていたかすかな記憶がある。当時、高価な電蓄やカメラを持っていたのでかなり優雅な生活だったようだ。カメラのおかげで私の幼児期の写真を沢山残してくれている、これは私の宝物となっている。
 祖父の染色業は、父が引き継がず、従弟が引き継いだ。私は幼い頃、一度その染色工場へ連れて行ってもらった記憶があるが、何時のことでどこにあったのだろうか、京都・西院あたりにあったと聞くが?
 私小六の時、母と離婚、後再婚し相手との間に子供二人がいる。(異母妹弟)、京都中央市場に勤めていた。他界したのはS46年享年50歳ごろ、49日法要のとき初めて母から知らされ参列した。私33歳頃のことで、今では死後約50年になる。後に話す機会があるが、私の持っている父親像とこの異母妹弟が持っている父親像が全く違っているのには驚いたことがある。


 母は京都府八木町(現)の出、姉・兄(戦死)があり三番目の次女、農村(田舎)生まれだが、農作業をした覚えがないと言っていたから、よほどお嬢さん育ちだったのかも。京都の女学校で学び、父と見合い結婚、女-男-女-女の4人の子供を設けた。
 母方の祖母には随分お世話になった。私28歳ころ、100歳近くで亡くなり葬儀にも参列した。母方祖父の事は今となってはわからない。
 私が小六に上がる春、離婚、以後女手一つで子供4人を育ててくれた、この「離婚」について母に聞いたが、あまり話したくなかったようだ。父の死後のある日、二人の姉が母を訪ねてきたことがあり、また、父も死の前に尋ねてきたことも聞いた。それで私にもことの真相がだんだんわかってきた。
 30年ほど勤務していた学校の用務員を定年退職、晩年は独り暮らしであった、90歳の誕生日を迎えた後、子供4人に見送られて旅立っていった。母の住まいは、私の一番下の妹夫婦が移り住み引き継いでくれている。

<続く>