平沢匡朗 ピアノコンサート
スピーカー遊び
スピーカー遊び
2021年版ontomoスピーカー:オンキョー編
テスト用の10CMスピーカ箱に乗せて試聴。このショボい「箱」と「50C5 SRPPアンプ」でもなかなか行ける音だ
スピーカユニットは、載せてあるだけ
アンプも「2A3シングル」に変えてみる、端正で繊細な響きがよくわかる
以上は昨日のこと
今日は小型シングルアンプ「21LU8シングル」に変えて聞いてみる。パワーあふれる音が
午後からスピーカーユニットを箱に取り付けて試聴、先日できてきた少し先輩の10CMユニットと聞き比べ
てみたが、なかなかよい勝負である
昨年のマークオーディオスピーカーは後ろに見える
これで小型スピーカが3種類揃ったが、もう一つツインスピーカにしたいのが残っている
new NAPPAFUKU-28 (2020527)
new NAPPAFUKU-28 (2020527)
<少し長い文になります>
倒産物語③I社
この物語は私個人の見解(見たり聞いたり考えたりしたこと)ですので、失礼があればご容赦ください。
ここでの問いかけは「倒産もプログラムしてきたのか?」
自分の「人生のプログラム」があるとすれば、他者にもあると思うのだが、はたして?
倒産物語③I社
私とも親しくしていただいたき、業界でも一緒に活動したこともある京都のベンチャー企業I社があった。当時、企業経営指導している有名経営コンサルタントがあり「ベンチャー企業(中小企業)は1点集中、キリでもむように小さくても深い穴を掘れ!」とゲキをとばしていた。業界の講演会で話も聞いた。そして、いくつかの企業がその指導を受けていたようであった。
私は先輩の教えで三分野主義だったので。「一点集中」(一分野主義)は危険だと思ってその話には乗らなかったのだが。
I 社長は大手企業O社出身のれっきとした技術者で、私から見れば、とてもうらやましい経歴と立場の方であった。マイコンブームと言わたころ、 I 社の技術は優秀で、わが社とは競合は無かったが、技術レベルは一歩も二歩も先に進んでいた。
同社の素晴らしい技術で開発された良い製品が市場に送り出され、その中にマイコンシステム開発に必要な開発支援装置を開発されてヒット商品になった、わが社もその装置を買って応用製品開発をした。
おそらくこの開発支援装置が優秀で良く売れたのだと思うが、他の仕事を止めこの装置に「1点集中」してしまったようだった。ある時輸出で大量注文が入ったと大喜びされていたのを思い出す。が社内では「1点集中」賛成・反対が対立し、反対した技術責任者が辞めてしまったとの噂が伝わってきた。
その後の経過はよくわからないが、他社から資本提供を受け、I社長は引退、出資先の会社から社長他役員が派遣されてきた。
そして「一点集中」が崩れる時が来た。この開発支援装置は優秀だったが、競合品が続々出てきて先発・後発に交じって大手メーカも乗り出して競争激化となった。貿易関係もそれきりになったようで後が続かなかったのかもしれない。それでまたたく間に経営破綻したようだった。
振り返ってみると当時この「1点集中」で倒れたと思われるベンチャー企業があと3社あったのは誠に残念に思う。技術が優秀だっただけに惜しまれるが、これも技術先行型ベンチャー企業の弱点だったと思う。
後日談、同社の別会社であったソフトウエア会社は、ゲームソフト開発で現在も大活躍している。また、技術者が別会社を立ち上げ現在も活躍している、これらの会社は今も立派に経営されているのは素晴らしいことである。
あとがき
倒産物語は後いくつかあるが、これまでの三例で一旦幕を閉じます。不遜な言い方かもしれないが、人間が生まれたら死に向かって生きているのと同じように、企業の大小にかかわらず創業(生)すると倒産(死)に向かって活動しているようなものである。しかし、企業は若返ることにより継続することができる、人間も親から子へ、子から孫へと命の系譜をつなぐように、この「若返る」ことの中に長寿企業の秘密があるように感じる。
「人生のプログラム」の中にこの「倒産」をプログラムしてきたのか?については、現実に倒産が起っているから、プログラムしてある、と考えなければならい。しかし、それはメインルーティンではなく、あるサブルーティンに迷いこんだ(紛れ込んだ)ときに倒産に至るのではないかと思われる、なぜなら、倒産しないで立派に活躍・継続している企業も沢山あるからだ。また、倒産の危機に陥っても見事に立ち直る企業も沢山あるからだ。これは倒産のサブルーティンを見事に抜け出してメインルーティンにもどることができたのだ。
また、倒産すると別の企業の誕生を促すことも見てきた。これもプログラムの内にありそうで「俺が倒産するから、それを教訓に起業し、失敗を恐れないで果敢に挑戦しろ!」とプログラムしてあるのかもしれない。
new NAPPAFUKU-27 (20210626)
newNAPPAFUKU-27 (20210626)
この物語は私個人の見解(見たり聞いたり考えたりしたこと)ですので、失礼があればご容赦ください。
ここでの問いかけは「倒産もプログラムしてきたのか?」
自分の「人生のプログラム」があるとすれば、他者にもあると思うのだが、はたして?
倒産物語②D社
2番目はD社を取り上げる、創業者は以前に出てきたS社のI氏、長期出張のお供した方である。
私が創業した4~5年後のころ、D社を創業されたのを風の噂で知った。S社出身ということで京都では注目され、自らベンチャー企業と名乗り技術先行型でものすごい勢いで急成長し注目を集めた。
ある時、業界でI社長の講演会があった、久しぶりにI社長の顔を拝見しながら聴かせてもらったが、かつて一緒に仕事したころの感じとは全く変わってしまっていたのには驚いた。話の内容も驚くやら感心するやらであった。その中に、三六協定をまったく無視した労働条件、残業・徹夜、休日出勤は当たり前ということにはア然とした。
私とは直接仕事の関係はなかったが、その講演を聞いた後、或る仕事で一度接点があった。T社に納入するD社の装置に付属するPCシステムである。
納品立ち合いの日時が決まり、PCメーカの人とT社へ出向いた。既に装置が納入されているものと思っていたが見当たらない、T社担当者の話では、午後に入荷することになっているのでしばらくお待ちください。とのことだった。ところが待てど暮らせどその気配がない、T社担当者も困ってしまって、D社へ連絡したようだが・・・、結果、まだ装置が完成していないので今日はキャンセルにしてくれとのことだった。担当者も困ってしまって平謝りとなった。実は当日までそれがD社製品とは私は知らなかったのだ。
それからかなりの後に納品となり、再度接続テスト立ち合い要請があった。現場に到着すると装置のテスト中であったが、PCインフェース部分はまだできていない、とのすげない返事。これにはあきれてしまった。それで、インターフェース条件を確認して、当方の仕様に完全に合うようにしてくれ、と言って次回は立会しないとの約束にした。
その後の経過は知らないが、たぶんD社が条件を合わせ、PCの操作はT社担当者がしたのだろうと思われ、当方には何んのお咎めもなかった。
この事があってから数年後に倒産の報があった。ものす ごい勢いのあるD社だったので、この知らせにもびっくりした。企業が成長してくると、営業・財務・技術・製造のバランス、つまり、人・技術・資金(人物金)などの経営総合力が問われる。労働条件もさることながらお客様に約束が守れない、納期が守れない、遅れても当たりまえ、という社風をうかがわせる倒産ではなかったかと思う。これは急成長した技術先行型ベンチャー企業の弱みでもあったと思う。
創業者I氏は退陣されたが、残った人達が他企業の支援を受けて再建、その後立派に成長されている様子がうかがえる。これも立派なことと感心する。
new NAPPAFUKU-26 (20210625)
new NAPPAFUKU-26 (20210625)
この物語は私個人の見解(見たり聞いたり考えたりしたこと)ですので、失礼があればご容赦ください。
ここでの問いかけは「倒産もプログラムしてきたのか?」
倒産物語➀P社
最初に,、私が11年間お世話になったP社を取り上げる。1999年ころ倒産、京都の産業界でもショックが走った、もちろん私も大きなショックを受けた、私が退職してから約30年後のことであった。
私が知っていることの概要は次の様である。私が退職したころから社長が病に倒れ長期治療入院となった。それで会社は社長不在の状態が長く続いた。闘病の末、社長が亡くなった、私も葬儀に参列させてもらった。
それから求心力が徐々に低下し、本来なら2番手の常務(専務は無かった?)か、ご子息が社長に代って経営のかじ取りをするのが普通だ。社長には息子さんがあったが、跡を継ぐ意思がなかったのかも。それで社長は創業時からの役員だったI氏が後を継いた。I氏は営業畑で会社の発展を営業面から支えてきた方である。
在職時、私とは畑が違うので仕事で話すことは少なかったが、退職時に社長が入院中だったので次の実力者といわれたI氏にお世話になったお礼を言うべく自宅に伺った。
私が創業してから十数年後、京都産業界のある会合で初めて顔を合わせた。その後も何度か顔を合わせたが「がんばってるそうやな」のあと必ず「君が辞めてから、同期が皆やめたやないか!」とお叱りを受けた。
P社との取引関係はなかったが、業績が悪いとの噂は聞かなかった。が、突然「倒産」の報が入ってきた。P社はS社の出資もあったが支援されなかったようだ。当時の倒産情報ではS社に相談が無かったとも記載されていた。
その後、いろいろな話が耳に入ってきたが、要約すると「技術開発力が落ち、資金繰りがつかなくなった」。私の推測では「銀行融資に保証人や担保を求められ、I氏は応じられなかった」ので融資がストップしたのではないかと思っている。I氏は自分の生命・財産を投げ出してでも会社や社員の生活を守るという強い意思がなかったのではないかと思われる。ここが創業者と2番手の最大の違いであると思う。結果、自分は守れたが会社は倒産、多数の社員が路頭に迷うことになった。
P社はその後、若手の有志が別のP会社を立ち上げ、業務を引き継ぎ現在も立派に活躍している。勇気ある行動であったと感心している。
後日談があり、P社から数人の人材を引き受け彼らに活躍してもらった。約20年近く勤務して順次高齢になって定年退職となったが、最後の一人が70歳まで仕事をさしてもらった、と言って挨拶に来てくれた。
newNAPPAFUKU-25 (20210624)
newNAPPAFUKU-25 (20210624)
倒産物語:はじめに
私が会社経営に携わっていた50年間には、いろいろな会社の倒産劇を見てきた、また客先が倒産あるいは支払いできなかったため債権が回収できなかったことが6件あった。
これらも私の人生の内にあるから、他社の倒産にもなにがしかの関係があるはず。そこで「人生のプログラム」の解読の一つとして、自分が見てきた倒産をいくつか考えてみる。また、これが企業経営に何か役立つことがあれば幸いである。
この疑問は「倒産もプログラムしてきたのか?」という問いかけである。実際倒産された方や関係者には大変申しわけないことだと思うが、後の人たちの役にたてるかもしれないのでお許し願いたい。
考えてみると企業も人間(集団)が運営しているのだから、生まれた時(創業)から死(倒産)に向かって活動しているようなものである。
毎年「中小企業白書」が発刊されるが、かなり以前のことだが、その中にこのようなことが記してあった。「統計からすると仮に10社創業したとすると5年後に残るのは3社、10年たてば1社しか残らない」。
人間の場合は永遠に生きながらえることはできないが、企業は人間が若返ることで継続することができる。京都には100年以上続いている会社が120社以上もあると聞いている、私の知人には7代目の社長がいるが、京都には何か企業永続の秘密があるの違いない。が、そんな中の数社の倒産例を取り上げてみる.
最初に倒産に至る直接の経過を考えると、およそ次のようにして起こる
➀会社運営上での根本的な問題や原因がある。
②それによって売上減少、あるいは支出増加があり
③資金調達できなくなって支払いが出来なくなり資金ショートする
④銀行取引停止になり倒産に至る
この②以降は共通しているので、ここでは➀を中心に次回から具体的に考えることにする。
<続く>
,