new NAPPAFUKU-10 (20210608)

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放送大学時代(60~70歳)


放送大学HP
https://www.ouj.ac.jp/?utm_source=yahoo&utm_medium=cpc&utm_campaign=shimei&yclid=YSS.1000082303.EAIaIQobChMI2LPoh5KF8QIVIp_CCh1VtQjzEAAYASAAEgK-3PD_BwE

放送大学京都学習センターHP
https://www.sc.ouj.ac.jp/center/kyoto/
注:放送大学は各都道府県に設置されている 

 60歳の4月(1999年4月)から放送大学に入学、9年半かかって卒業した。

 

 社長時代には産学連携事業や大学教授との共同研究もやってきたので、大学との交流があった。


 中学卒業式の翌日から職にき、夜は定時制高校(4年制)へ、卒業後に某国立大学を受験したが見事に桜散る、この学力では国立大学はとても手が届かないとわかって某私大第Ⅱ部(夜間制)にと思ったが、大学はあきらめて職務に専念することにした。

 このころから自分で事業を起こそうと考え始めた、この話は後号で触れる。
 
 「放送大学京都学習センター」は、当時、京都大学構内の一角にあった(現在はJR京都駅前の「キャンパスプラザ京都京都市大学のまち交流センター)」内にある)ので京大へ行っているという感じで気持ち的に格好良かった。
 

 入学してみると、私より年上の老学生が多くて驚いた。もちろんご婦人も同じである。定年退職後から勉強しなおしている方々が多かったようで、中には今の私の年代80歳台の老学生もあった。特筆すべきは皆さん大変勉強熱心であったことだ、中には教授よりその方面に詳しい方があって面接授業では先生もタジタジといった場面も良く見受けられた。

 

 学業成績はお世辞にも良かったとは言えない。一番てこずったのは数学、高校時代は得意だっただけに自分の学力の衰えに驚くばかり、仕事では難しい数学を使うこともなかったのだから当然ではあった。半面、経営・経済・人文・自然科学などの分野は面白かった。なかでも経営学・技術経営やベンチャービジネス半導体技術は自分が経験してきたことが生きて、良いまとめにもなった。自然科学では最新の宇宙科学から地球科学までありこれも興味深深々、京大花山天文台へ学習いったのも楽しい思い出である。
 

 学習方法は、通信教育なのでTVで送ってくる、それを録画して土日に学習する、この間は自家用車通勤を止め、電車、バス通勤にして教材(教科書)は通勤中に読んで予習復習した、しかし1回読んだ程度ではほとんど記憶に残らない、最低5回繰り返して読まないと頭に入らない、単位認定試験は70点を目標に必至で読み返したものだ。試験点数が足らずいくつかの単位を落としている。確か卒業に必要な123単位以上を取得したが、卒業近くなって卒業に必須な基本単位・第二外国語単位が不足していることが分かり難儀したことを覚えている(確かスペイン語だった?)

 面接授業(スクーリング)は予約が取れれば全国の学習センターのどこでも受けることができた。遠くは金澤工業大学(石川)や岡山大学(岡山)、近くでは大阪教育大学(大阪)や龍谷大学(滋賀)にも参加した、校外学習で京大芦生演習林へ行ったことも楽しい思い出である。またクラブ活動もあり放送大学学生時代は楽しかった。

 

 放送大学修業年限は最長10年、会長職も忙しかったが、ようやく卒業できたのは修業年限ギリギリの70歳手前の8月、ここまで9年半かかった

 

 今振り返ってみると、この間勉強したことはほとんど忘れてしまっている。若い時に勉強したことは今でも覚えていることが多いが、60歳を過ぎてから覚えたことはすぐ忘れてしまう。しかし、時折思い出して当時の教材をみることがあるが。頭の隅のどこかに残っているので人生の一時期の9年半、有意な時期を過ごしたと思っている。

new NAPPAFUKU-9(20210607)

退任した頃から(3)

 

 それから2~3年後、業績回復が見えた頃に「人員整理」の責任を取る形で、22年前、私60歳で社長実務は後輩に譲り、会長に退いた。

 

 「生涯現役」、この「現役」とは何を意味するのか、どんな状態をいうのか? あれこれ思案している内に、あるときフト思いついたことが有った、それは「何かに執着している、何かにこだわっている、何かから離れられないでいる、がんじがらめにとらえられている」といったようなことだった。

 

 結論からすると、私に取りついていた魔物の正体は「創業者、代表取締役、社長」という20数年来、勤めてきた立場、役割、責任感、といったものであった。前号でも書いたが、まさに「車は急に止まれない」自分がいた。

 気持ちも切り替え、実質的にも私が使っていた机椅子、場所や報酬もすべて新社長に渡した。

 

 そう、魔物は自分の中にいたのだ、と気が付いたら早いもので残っていた社長気分はどこかに消えてしまった、それでようやく会長たるは何なのか、会長の役割が見えてきた。
 「そうだ! 元気で働いていること」だ、「元気で出社していれば皆さん安心してくれる」「社長では出来ないことをやる、これからはもっと他のために働く」ことではないか」と納得した。

 

 思いがけなく、私に時間的・精神的に余裕ができてきた、それでかねてから考えていた放送大学の門をたたいた。

 

new NAPPAFUKU-8 (20210604)

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社長を退いた出来事

 

写真:半導体製造工場の一例(WEBから引用)f:id:arunas001:20210604090859j:plain


「生涯現役」という響きの良い言葉がある、そうありたいとあこがれる方も多いと思う。私も40代はこの言葉に魅力を感じで生涯現役であり続けたいと思っていた。ところがそうはいかなかったのだ。

 

 丁度60歳手前ころ(今から25年ほど前)半導体不況が襲ってきた。シリコンサイクルという半導体業界特有の4~5年ごとにやってくる不況である。何度目かの不況だったがこの時は本当に厳しい状況に追い込まれてしまった、それまでにあった売上がストン激減してしまったからである。

 

*シリコンサイクルはこちらをご覧ください*
https://www.weblio.jp/content/%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AB


 
 創業以来オイルショックを始め円高不況、半導体不況など何度か不況に見舞われ、その都度乗り切ってきたが、今回はピンチに陥った。
 人員整理(当時はリストラと呼ばれた)で、約30名のパートさんを全員解雇、社員も30名ほどが解雇になった。従業員総数を75名以下にしなければこの大嵐は乗り切れなかったのだ。それまで一緒に頑張ってきた人たちを泣く泣く首(人員整理)に踏み切った。
 人員整理対象者には、一人ひとりと面談し頭を下げて事情をよく話して、納得していただき、法に基づいて解雇したが、こころから大変申し訳なく思っている。このことは私の企業経営上で最大の汚点となった。

 

 当時は半導体関連受注が好調で7割を超えていた、それが急激にほとんどなくなってしまったから人員整理以外の方法が無かった。その後の業績回復の見通しが立ったころに人員整理の責任を取る形で60歳時に社長を後輩にゆだねた。

 

 「生涯現役」の話の戻るが、自分の全くあずかり知らないところで半導体不況が起こり、やむなく人員整理、社長を譲ることになり、「生涯現役で頑張ろう」はむなしく崩れ去ってしまった。
 
 しかし、後に分かったことがある、それはいつまでも私が生涯社長で頑張っていたらどうなっていたか、と仮定してみるとはっきりすることがある、それは社長人材が育たないことであった。そして順に下の人が育たない、ということ、つまり、いつまでも上に重しが乗っかっていたのでは下が育たないということだった。

 「社長を譲る」→「新社長を育てる」→「その下の社員を育てる」→「自分を育てる」とにつながる。「自分も育てる」というのは会長職を務める会長自身(自分自身)を育てるということであった。
 

 まとめると「急激な受注減少による人員整理」のピンチは「新社長を育てる」「社員を育てる」「会長(自分)を育てる」という「人材育成」と「会社そのものを育成する」というチャンスになっていた。

 

 

new NAPPAFUKU-7 (2021603)

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(2021603)

 

写真:定年退職を取り扱った本の例

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退任した頃から(5)


 これからは「毎日が日曜日」というが、定年退(退任)後の有り余る時間を如何に過ごすか、有効に使うか、まかり間違っても粗大ごみとして放り出されないようにするには、などなど企業戦士として、この世の荒波を突っ走ってきた方々には大きな課題があります、

 

 「車は急に止まれない」、サラリーマンをされていた方が定年を迎えると、これまでの日常風景が一夜にして変わっていても翌日もいつもと同じように出勤する方もあるらしい、私もそうでした。9月1日から出社しなくてもよいので朝寝坊しようと思ってたが、起床したのはやはりいつもの朝6時(ハハハ~)生活習慣は急に止まれないもですね、多くの方々がこのような体験をされてきたことだろう。
 

 そして団塊世代の大量定年退職時代、書店には「定年退職後の過ごし方」など「定年後の・・・」という名の本が沢山並んでいる。(上の写真)
 友人知人(男性)たちは、旅行、写真、散歩、山登り、音楽、テニス、ゴルフ、貸農園、田舎住まい、など〇〇三昧であるが、彼らによれば、それは数か月も過ぎると飽きてしまい、その後も長続きさせるにはひと工夫も二工夫もいるので困ってしまうということらしい。
 中には再就職で転職、コンサルタントや講演をしている方もある。が、特に転職し生活環境が変わり人間関係や企業風土が変わるとそれに溶け込めない方もあるように見受ける。
 
 余談だが、私が現役時代に定年退職者採用面接で感じたことで、有名大企業に勤められた方の採用は難しいと思ったことがある、その代表的なのが(一方的かもしれないが採用する側から見ての話しとして参考にしていただければ)


・かつて勤めていた会社の大きい看板が下ろせない(見せびらかす)
・かつての役職立場が忘れられない(上から目線が身についいる)
・長く管理職や事務職にあった人は現場作業に向かない(手に職がない)
・やってきた仕事の守備範囲が狭い(小企業では一人が何役もしなければならない)

 例外は技術や現場作業が大変好きな方である。こういう方はどこでも通じるし早く社内の空気に馴染んでいただけ、若い人への技術指導もできるので採用側は大歓迎である。

 

 私の場合は贅沢なことだと思うが、(退任)退職できないことが悩みであった、そして多くの友人知人が定年退職していく姿をうらやましく思ったことがある、彼らからすれば逆に定年退職がない私をうらやましく思われていたに違いないが。

 このように定年退職は人生の大転換時、その条件や影響はお一人お一人にとって随分様子が違うので一概には言えないが、共通していることがある


➀人生時間:これからの人生時間、人生100年時代というから仮に60歳から100歳までとすると40年の長い時間がある。これは丁度20~60歳までの現役世代時の40年間と同じである。自分の人生時間があとどれだけ残っているのか、わからないが、少なくともあと20~30年はあるかもしれないと考えておく方が良いと思う。


②体力の衰え:次に共通しているのは、体力の衰えである、前の40年・現役時代と確実に違う点であるが、体調・体力・健康状態は確実に劣ってゆくし、それにつれて気力も記憶力も何もかもが落ちてくる。(実感!)したがって新しいことを始めるのは極めて難しくなって、学生時代や現役時代に身に着けたことでないとやりにくい。それでご年配の方がスマホやパソコンを苦手とするのは仕方がないことだと思うが、ボケっとしていると時代から置き去りにされてしまう。

 

③人生航路の終点:第三の共通点は、誰にでも人生の終点が来ること、人生航路最後の寄港地・終着駅がある。これは誰も避けられないしあたりまえのことだ。しかし、私にはまだその実感が乏しいが、その時は確実にしかも突然やってくるに違いない。少なくともコロナにつれていかれないようにしたいものだ!

 

続く>

 

 

new NAPPAFUKU-6 (2021602)

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(2021602)


退任した頃から(4)

 

写真:小学校の学芸会、右端のアコーディオンを弾いているのが私(当時4年生頃)その後ろ横にハーモニカをふいているらしい二人の男子が見える。

 

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 ②③は後に回して、話は退任してからの「④80~90歳:楽器を習う」に飛びます。


 小学生(S24)の頃、学芸会でアコーディオンを演奏したことがあった。写真のように打楽器中心のガラクタバンドのような合奏だが、この写真が残っている。

 この頃、近所の音楽教室で一時的にアコーディオンを習ったことがあった。どのくらいの間、習ったのか憶えてないが、あまり長くはなかったようだ。この音楽教室では、ほかにバイオリンやピアノも教えていたようで、中に格好良くバイオリンを習っていたお兄さんに「何という曲か」と聞いたところ「ツゴイネルワイゼン」と教えてくれた。このとき初めて聞いた生演奏であった。
 

 そのことを思い出したが、途中で投げ出したのかもしれないアコーディオンを再度習い直したいと思った。退職が決まってから京都市内でアコーディオンを教えてくれるところがないか、と探していたが見つからなかった。楽器屋で聴けばわかるかもしれないと十字屋で尋ねたところ京都にアコーデオン教室はないとの話、アコーデオンを買う気になっていたので随分落胆したことを覚えている。
 ある時、近くの「醍醐カルチャーセンター」の受講生募集広告を見ていたとろ、沢山ある教室の中に「ハーモニカ教室」があった。家内に話したら町内のママ友で習っている人があるから聞いてみようか、と言って早速聞いてくれた。
 

 9月始めに見学参加、受付の女性に案内され教室に入ると、高齢女性が数人、高齢男性が一人の受講生があった。先生はとみると少し先輩という感じの老人だが親しみやすそうなお顔であった。

 在職中の身辺整理をしている最中だったので約2か月後の11月から習うことにした。思い出してみると、ハーモニカは高校時代に自己流で吹いていたことがあり、卒業とともに離れてしまっていた。

 これも途中でやめてしまったのだ。途中でやめてしまった楽器がアコーデオンとハーモニカの二つあったのだ、今度は最後までやり切ろうと習い始めた。
 

 早いもので、それから約2年半、「石の上にも三年」には満たないが、ようやく慣れ親しんできた、演奏曲目も演奏技法も難しくなってきた。まだまだ入門だというのに、今年3月に初級認定していただき励みにもなった。
 先生は83歳(当時)ハーモニカでは大師範という師範の上に立つ人で関西では一人しかない(当時)という方であることが分かった。偉い先生に師事したものだと、その出会いに感謝しながら、月2回の教室に通っている。最近習っているのは「赤と黒のブルース」「岩壁の母」「お富さん」など、まだ初級なので難しい奏法では出来ないが、普通に演奏するだけでも難しい曲、その上私は曲をほとんど知らない。何とか耳で聞いて知っているという程度で、歌謡曲に馴染んでなかったから大変手強いが、なんとか楽しく演奏できるようにと頑張っている。


 オーディオをやっていて、自分は楽器をしらないから本当の音や音楽を知らないということがあった。しかし、ハーモニカを習い始めて、自分の演奏を聞きなおしたり、教材のCDを聞いていると音と楽器と音楽の関係が分かってきた。つまり。模範ハーモニカ演奏CDがピアノやバイオリン曲など楽器の音と同じようにオーディオ装置の試聴に良いことが分かってきて、音楽もさることなからスピーカから再生される音とハーモニカの生音との比較に良い試聴音源となったことだ。

 

「たかがハーモニカ、されどハーモニカ」

 口で演奏する多くの楽器は吹いて音を出すが、吹く・吸うのコトロールで自在に音楽を響かせるのはハーモニカだけらしい。複式呼吸によるハーモニカ演奏法は健康にもボケ防止にもよさそうだ。


 ハーモニカは、この先ずっと続けたいものだ。

new NAPPAFUKU-5
(2021531)

退任した頃(3)
 「これからの人生をどのように生きるか?」と。

 会社のことは割愛しますが、ここでは自分個人に関することのみです.

 およそ次のようにしましたが、決して大上段に振りかぶった大層なことではありません。ごく普通レベルのことです。

 

➀50~60歳:オーディオ趣味の復活(今も続けている)
②60~70歳:勉強し直す(放送大学を約10年かかって卒業した)
③70~80歳:地域に役立つ(自作真空管アンプによるLPレコードコンサート・醍醐LPレコードコンサートの開催、今はコロナ禍で中断)
④80~90歳:楽器を習う(80歳からハーモニカを習うことになった)
⑤90歳~:お釣りの人生(自分が他者のお世話になるかもしれない?)

 

簡単に説明を加えますと

➀50~60歳:オーディオ趣味の復活
 若いころはなけなしの小遣いをはたいてラジオ、アンプ、スピーカボックス製作など、それなりにしていたが、結婚、起業、子供誕生、自宅購入、その上、多忙な事業活動もあり趣味どころでは無くなってしまった。
 しかし、入院を機に長らく忘れ去っていた自作真空管オーディオがよみがえってきた。それまでには、時折LUXKITやTORIOキットを組んで楽しんでいた。自宅購入後はオーディオコンポを買った。子供たちも中学・高校生になるとカセットテープに録音したりして、私のオーディオを占有されてしまった、長岡教に凝ったのもこの頃。
 若かりし頃に買った武末アンプの本を読み漁りました、といっても退院後は目が不自由になっていますので要所要素をつまみ読みでした。MJ誌RG誌も再び購読開始、そして6336AOTLを最初に試作、高価な6336Aを何度も真っ赤にしてしまったけれども球は大丈夫生きていた、ステレオ構成で「6336AOTL」を製作、そして時あたかもMJ誌に宮崎氏のOTLアンプ研究シリーズが始まり、それを基に「25E5OTL」を製作した。
といってもこの間は約5年ほど経過している。仕事の合間を縫って、会社の休日に精を生を出して、といった具合であった。

 

 この頃に製作した3台のOTLアンプの写真があります。
➀最初のOTLアンプ:武末型「6336AOTL」、写真は最近修復したもの
②2代目の宮崎型「25E5 OTL」
③3台目が宮崎型「40KG6A OTL」
この3台はデザインも良く似ており同じ大きさのシャーシに組み立てています。
これらの3台は、既に他家へ嫁いでいます。(元気にしてるかな?)

 写真:上から➀②③、①は後に改作した姿になっている

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new NAPPAFUKU-4 (2021530)

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退任した頃(2)
 そして、80歳の手前20日前の8月31日(この8月31日は会社の期末日でした)に退職(退任)させてもらいました。しかし、課題をいくつか残してしまいましたので、すべてがうまくいったわけではありません。それらは後を引き受けてくれた人達に委ねることになりました。


 その翌年の、一昨年2019年、若返った経営陣で会社設立50周年を迎えることができ、新経営体制がスタートしました。(注)

 

 私は中学卒業式の翌日から職について、約65年間を経て職(仕事)から離れることになりました。仕事を離れるにあたってこれから先にやりたいことを以前に決めていました。

 

 実は50歳前後に、右目の網膜剥離を患い入院3回手術3回と約1年間入退院を繰り返し、職場に復帰できない事態になってしまいました。しかし、会社は社長がいなくて役員・社員が頑張ってくれて無事に乗り切ることができました。ありがたいことでした。


 この網膜剥離の治療は手術後7~10日間ほどは絶対安静しなければなりませんでした。(現在でも同じかどうかわかりませんが)網膜剥離は命に直接影響しませんが、目の事ですから目を使うようなことができません、つまり本を読んだりTVを見る事ができません、出来るのは耳で聴くことと頭で考える事でした。
 耳で聴くことは、ラジカセとカセットテープやCD、それにヘッドフォンを持ち込んで音楽やラジオを聴くことでした。そしてもう一つは頭を使うこと・考える事でした。
 この入院中の時間がこれまで生きてきた50年を振り返るまたとない良い機会になりました。(ことは後に触れる機会がありますのでここでは触れません)

 

 その中で、これから先のことについてもいろいろ考えました。しかし、メモを取ることもできないし声を出して録音することもできませんでしたので、考えたことは頭の中に残しておかなければなりませんでした。今、私の中心的な仕事(?)になっている真空管オーディオを復活することもその中の一つでした。


 いろいろ考えた中で、これからの人生について10年ごとの計画を考えました。「残りの人生を何に使うか?」と。
<次回に続きます>

 

注:私の個人創業時1965年1月からすると54年と少し長くなりますが、株式会社設立時の1969年5月1日を創業記念日としていますので2019年で50年になります。